今年も夏がやってきた。
年一回の世界大会の季節だ。
今年のIJK(イーヨーコー: 国際青年エスペラント大会)は、ベトナム・ハノイで8月5日から一週間開催される。キャンプにでかけてキャンプファイヤーなど、プログラム盛りだくさんで面白そうだ。
私は残念ながら参加できないが、参加できないエスペランティスト必見、
インターネットで祭りの模様が放送されるそうだ。
昨年のウクライナでは、JEJ(日本青年エスペラント連絡会)として少しだけUSTREAM 放送を行ったが、
今年はTEJO(世界青年エスペラント機構)とMuzaiko がそれぞれ Reta Elsendo をするそうだ。
インターネット環境が整っている場所は限られるので、大会すべての模様は見られないだろうけれど、参加している気分になれること請け合いだ。
IJKの雰囲気が味わえて、まだ、エスペラントに興味を持ち始めたばかりの方には、こんな風にエスペラントが使われている、こんな風に楽しめる、楽しんでいる国際人がたくさんいるということがよく分かると思います。
詳しい情報が手に入り次第、更新します。
おそらく、IJK のHejmpagxo から見られると思います。
http://ijk-68.hanojo.org/index.php
追記:
結局、大会の放送はおこなわれなかったようです。
残念。誰か動画アップしてくれないかな。
2012年7月24日火曜日
2012年7月8日日曜日
エスペラントとはなんだろうか Kio estas Esperanto?
『エスペラントとは何だろうか?』
というタイトルの本はないだろうか?
エスペラントとはなにか。
それは、国際的な出会いを求める人にはもってこいのツールであり、
宇宙人から見れば、地球人が産み出した文化の一端。
趣味ともなるが、宗教的性格も内包する。
言語マニア、平和主義者、もしくは、その規則的な文法に惹かれて始める理系、コンピュータを専門にする話者が多い。
というのは、私の主観に基づく一般論だ。
個人的な話をしよう。
私的には、エスペラントはいわゆる"ことば"のひとつだ。
ことば。
言霊と言うように、すべてのことばには文化・魂・思想・歴史を秘めている。
私は関西弁、東京弁、英語、エスペラントをしゃべる。
東京の人とは東京弁でしゃべる。
関西人とはもちろん関西弁。
福岡の息子と毎日一緒にいたときは、福岡弁が混じった。
岡山の人としゃべる機会も多々あって、そのときは、岡山人になった気がする。そのつもりでしゃべっている。
英語は美しいことばだと思う。
そこには、アメリカという一種の憧れというか、憧憬の念が含まれている。
白人と黒人の英語は違う。それは、ラップミュージックやR&Bなどを聞いていると感じると思う。
どちらの英語も好きだ。
今は日本で生活しているので、機会を見つけて英語をしゃべりたい。
それは、フロリダでの留学時代を思い出すのと、アメリカ人になった気分を味わうのが嬉しいのだ。英語をしゃべっていると、同時に英語をしゃべっていたときの思い出が蘇り、一緒にいた友達を思い出す。だから、英語が鈍ってくると、それらの友との関係が褪せていくようで、悲しい。
エスペラントも同じだ。
しゃべりかける相手は限られるけれど、
たとえば、英語もエスペラントも通じる相手に話しかけるとき、どちらのことばを選択するのか。
相手とこちらの力量のバランスもあるが、この話題はエスペラントでしゃべりたい、伝えたいということがある。
翻訳すれば同じ内容かもしれないけれど、そこには厳然たるニュアンス・思想の違いがあるのだ。
それこそ言葉では言い表せない、色やにおいのようなものだ。
PS.
わたしの尊敬するおばあちゃんは、
「エスペラントをしゃべるとき、自由になる。」
と言う。
自分が解放される気分なのだろう。
しがらみにとらわれず、自由に自分の思うところを表現でき、余すところなく伝えられる。
だから、エスペラントを使いたい、エスペランティストとしゃべりたいのだ。
エスペラントはそんな風に人を魅了する。
というタイトルの本はないだろうか?
エスペラントとはなにか。
それは、国際的な出会いを求める人にはもってこいのツールであり、
宇宙人から見れば、地球人が産み出した文化の一端。
趣味ともなるが、宗教的性格も内包する。
言語マニア、平和主義者、もしくは、その規則的な文法に惹かれて始める理系、コンピュータを専門にする話者が多い。
というのは、私の主観に基づく一般論だ。
個人的な話をしよう。
私的には、エスペラントはいわゆる"ことば"のひとつだ。
ことば。
言霊と言うように、すべてのことばには文化・魂・思想・歴史を秘めている。
私は関西弁、東京弁、英語、エスペラントをしゃべる。
東京の人とは東京弁でしゃべる。
関西人とはもちろん関西弁。
福岡の息子と毎日一緒にいたときは、福岡弁が混じった。
岡山の人としゃべる機会も多々あって、そのときは、岡山人になった気がする。そのつもりでしゃべっている。
英語は美しいことばだと思う。
そこには、アメリカという一種の憧れというか、憧憬の念が含まれている。
白人と黒人の英語は違う。それは、ラップミュージックやR&Bなどを聞いていると感じると思う。
どちらの英語も好きだ。
今は日本で生活しているので、機会を見つけて英語をしゃべりたい。
それは、フロリダでの留学時代を思い出すのと、アメリカ人になった気分を味わうのが嬉しいのだ。英語をしゃべっていると、同時に英語をしゃべっていたときの思い出が蘇り、一緒にいた友達を思い出す。だから、英語が鈍ってくると、それらの友との関係が褪せていくようで、悲しい。
エスペラントも同じだ。
しゃべりかける相手は限られるけれど、
たとえば、英語もエスペラントも通じる相手に話しかけるとき、どちらのことばを選択するのか。
相手とこちらの力量のバランスもあるが、この話題はエスペラントでしゃべりたい、伝えたいということがある。
翻訳すれば同じ内容かもしれないけれど、そこには厳然たるニュアンス・思想の違いがあるのだ。
それこそ言葉では言い表せない、色やにおいのようなものだ。
PS.
わたしの尊敬するおばあちゃんは、
「エスペラントをしゃべるとき、自由になる。」
と言う。
自分が解放される気分なのだろう。
しがらみにとらわれず、自由に自分の思うところを表現でき、余すところなく伝えられる。
だから、エスペラントを使いたい、エスペランティストとしゃべりたいのだ。
エスペラントはそんな風に人を魅了する。
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