2010年10月7日木曜日

エスペラントは1000年後に生きている?

よくエスペラントの未来について考える。
どうやったら広まるのだろうか?
広まるとすれば、その言語はどういう条件を備えているだろうか?

結論から言うと、今、エスペラントの文化をしっかり作るべきだと思う。
もっと特化すれば、エスペラント音楽と古典を。

外国語を学びたいと思う動機は、
①仕事に有利
②大多数の外国人が共通語としてしゃべっている
③その民族の文化に触れたい
に大別されると思う。

このうち①、②は英語が席巻している。
残るは③。
しかし、エスペラントは特定の民族を持たない。
そこがいいところでもあるのだけれど、残念ながら大勢の人間を惹きつける要因には至っていない。
多大な労力を必要とする、言語習得に見合う恩恵は与えてくれないと考えられているからだ。

一方、
古池や 蛙とびこむ 水の音
閑さや 岩にしみ入る 蝉の声

と歌うとき、翻訳された作品から、どれほどこれらの歌を感じることができるだろうか?

青蛙 躍進古池 水的音 (鄭振鐸)
The silence; The voice of the cicadas soak into the rocks

などの外国語訳より、日本語で鑑賞した方がこれらの句を感じることができるだろう。
同じことは逆に、日本人がシェークスピアを読む時にも言えるかもしれない。
だから外国語を学ぶのだ。

百人一首も現代語訳は見るがやはり、原文で読む方が味がある。
万葉集も理想的には万葉仮名で読みたい。

古典の重要性。
古典には民族のルーツがあり、歴史がある。
それがその言語に厚みをもたらす。
エスペラントにはそれが乏しい。
もちろん各国の文学作品をエスペラント訳することは進めていかなければならないが、同時にエスペラントによるエスペラントの古典がもっと作られるべきだ。
エスペラントにしかできない表現。エスペラントで味わいたい作品。エスペラントならではの文化。

この音楽を聴くために!この小説を読むために!この詩を理解するために!エスペラントを学ぼう、となってほしい。

1000年後、(そもそも人類が生存しているのかということは置いといて)エスペラントが滅びていないにしても、今と同じような状況で細々と続けられているとすれば、あまりにもさみしい。

Esperanto cxu vi havas la estontecon?
 

p.s. 今を楽しんでいればいいんじゃないか、旅行でもっとPRするのがよい、という意見があった。

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